本田雅和氏(集会1講師)
「僕は自分が調べてきた小児甲状腺がんの多発の問題や拙著『原発に抗う』(緑風出版)に書いたようなこと=原発被害の「見えない化」=を報告しようと考えてきました。
特に津波被災地は故郷が復旧復興したら帰郷できますが原発被災の特徴は故郷の汚染と故郷喪失、故郷からの追放なので、パレスチナの民やユダヤの民の受難のように深刻だからです。
しかし、同時に、僕は津波被災地の岩手県沿岸、釜石などでの駐在=暮らし、取材体験も長く、たった一夜で、全域で2万人近い犠牲者で出ることなど、特に岩手県大槌町などのように、定住人口の一割近くが亡くなる町や集落での見聞は、現代戦争の戦場や内戦、内乱の現場の多く、パレスチナやイラク、アフガニスタン、フィリピン革命、ルーマニア内乱などを取材してきた僕でも、見聞がありません。(犠牲者の数で戦争や災害を語るべきではありませんが、イラクやアフガンでも何万人も殺されるのは何年にも長期にわたってで、一夜にして万の人々が亡くなるのはヒロシマ、ナガサキ、東京大空襲の第二次大戦期に戻らねばならいのではないでしょうか?)
被災直後は、まさに戦場でした。
そのあまりにもたくさんの死を前に、宗教者でない僕も、祈りということを真剣に考えました。祈りとは何か、誰のために、何のために祈るのか、教会が津波で流され、放射能汚染で祈りの場が奪われたとき、瓦礫の中で祈る場が教会なのか? 祈りで人々は救われるのか?? 被災地での多くのキリスト者は教会の原点に戻ったのではないでしょうか?」
永訣の朝
けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
うすあかく いっさう 陰惨(いんざん)な 雲から
みぞれは びちょびちょ ふってくる
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)の もやうのついた
これら ふたつの かけた 陶椀に
おまへが たべる あめゆきを とらうとして
わたくしは まがった てっぽうだまのやうに
この くらい みぞれのなかに 飛びだした
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
蒼鉛(そうえん)いろの 暗い雲から
みぞれは びちょびちょ 沈んでくる
ああ とし子
死ぬといふ いまごろになって
わたくしを いっしゃう あかるく するために
こんな さっぱりした 雪のひとわんを
おまへは わたくしに たのんだのだ
ありがたう わたくしの けなげな いもうとよ
わたくしも まっすぐに すすんでいくから
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
…
わたくしの やさしい いもうとの
さいごの たべものを もらっていかう
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうに けふ おまへは わかれてしまふ
ああ あの とざされた 病室の
くらい びゃうぶや かやの なかに
やさしく あをじろく 燃えてゐる
わたくしの けなげな いもうとよ
この雪は どこを えらばうにも
あんまり どこも まっしろなのだ
あんな おそろしい みだれた そらから
この うつくしい 雪が きたのだ
(うまれで くるたて
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる)
おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
わたくしは いま こころから いのる
どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ
(てんでんこ)ジョバンニの切符:1
2019.08.27 東京朝刊 29頁 3社会 写図有 (全845字)
■銀河鉄道と6脚の椅子、主はどこへ消えた
薄暗い闇の中に椅子が6脚並んでいる。「誰かの不在」を示すかのように。ここに座っていた人はどこに消えたのか。波の音が聞こえる。
今春、岩手県内で上演された震災劇「ジョバンニの切符」はそんな情景から始まる。
生き残った者と死者との交信を描く宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」をモチーフに、賢治の「永訣(えいけつ)の朝」の言葉が舞台に降り注ぐ。プロデュースしたのはいまから40年前、盛岡市で劇団「赤い風」を立ち上げた坂田裕一(さかたゆういち)(66)。
長年、市職員を務めながら演劇活動を続けてきたが、少年時代の一時期を過ごした海辺の街、岩手県陸前高田市を壊滅状態に陥れた東日本大震災は、坂田の人生も大きく変えた。
何人もの同級生や知人が消息を絶った。直後に訪ねると、どこが道だったかも分からないほど、がれきと汚泥に埋もれていた。家族や我が家を失った友人たちに言葉は無力だった。
定年退職後は文芸や音楽で被災地の復興を支えるNPO法人「いわてアートサポートセンター」の理事長に就いた。時に空しさを感じつつ、垣間見る被災者の泣き笑いに救われる思いもした。
「演劇って速効性はないかもしれないけど、観(み)た人の心に深く沈潜して、何かを変えていく力があるのではないか」。震災後、なぜか賢治の作品が見直され、東京を始め、全国各地の劇団がブームのように「銀河鉄道の夜」に取り組んでいた。
いくつかを見たが、違和感を覚えた。「被災地の岩手で、岩手の人が解釈した『銀河鉄道の夜』をつくりたい」。構想を温めていた時に紹介されたのが、演出家の大谷賢治郎(おおたにけんじろう)(47)。2017年末のことだ。(本田雅和)
=文中は敬称を略します
(No.713)
◇
亡くなった人々への祈り、生き延びた私たちに託されたものは――。答えを探し続けた演劇人たちのストーリーです。
【写真説明】
舞台上の椅子6脚。開幕までの間、観客は主なき空席と対峙(たいじ)させられる=3月、いわてアートサポートセンター提供
朝日新聞社
(てんでんこ)祈り:3 社会運動
2018.09.13 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,061字)
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■何百という遺体を前に読経し、身元不明の遺骨も引き取って供養してきた。
「私をいま動かしている原動力は1286人もの犠牲者を出したあの惨事です。もう二度とあのような大惨事を繰り返してはならない。悲しみをこれ以上増やしてはならない」
東日本大震災で人口の1割近い住民が亡くなった岩手県大槌(おおつち)町。船越湾を望む高台にある曹洞宗・吉祥寺(きちじょうじ)住職の高橋英悟(たかはしえいご)(46)は8月17日、盛岡市の岩手県庁での記者会見で、涙を浮かべながらその心情を吐露した。
町職員だった長男(当時29)を旧役場庁舎で失った女性(64)とともに、高橋はこの日の朝、住民訴訟を提起したばかりだった。津波の直撃を受けて破壊された旧庁舎の解体を進める現町長を相手取り、解体工事と工事への公金支出差し止めを求めたものだ。
町の中心部で、大きく破壊された外壁を見せつける旧庁舎を震災遺構としていったん保存し、なぜ町民への避難指示・勧告も発令されないままに多数の死者が出てしまったのかの検証を進め、次世代への教訓にしてほしい。署名運動もして町議会に訴え、住民監査を請求してきたが、ことごとく退けられた。
人々の平和と安寧を祈るべき僧侶として、こうした社会運動は正しい選択なのか――。自問し続けてきた7年半でもあった。
しかし、提訴の会見場でも、高橋の脳裏に焼き付いて離れなかったのは、震災直後から遺体安置所をまわりながら何百という傷ついた遺体を前に読経して歩き、身元不明の遺骨も含めて引き取り、供養してきた日々だった。「こんな思いは絶対に二度としたくない。そのために何をしなければならないのかを考えてきました」と、穏やかに語る。
「人は本来、大切な家族や愛する人に見守られながら、お別れの時間を共にして旅立っていくべきものなのです。それを手助けするのが宗教者の役割ではないですか。“葬式仏教”と揶揄(やゆ)されてもいい。安らかなふつうの死を迎えるのは、万人の権利です」
あの時、それが突然に断ち切られる事態が、あまりにも大勢の人に襲いかかった。「まるで戦争のようだった」。大槌町でも体験者のお年寄りは口々に言う。戦争は人災だ。地震や津波は天災だが、人災が絡んで被害を広げたのなら、これからは人の努力で防がねばならない。それが祈りだ。
高橋は言う。「まだまだ多くの人たちが、お別れを終えていないのです」(本田雅和)
(No.557)
【写真説明】
東日本大震災後の初盆の送り火を前に祈る高橋英悟住職=2011年8月16日、岩手県大槌町吉里吉里、山本宗補氏撮影
朝日新聞社
(てんでんこ)祈り:4 対話
2018.09.14 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,076字)
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■「町を二分するのではなく、互いに傷ついた心を結び直してみませんか」
住民の安全を守るべき地方自治体の職員の中から、多数の死者を出してしまった岩手県大槌(おおつち)町。津波浸水域の旧庁舎前で災害対策本部を設営中に津波の直撃を受けた職員ら28人を含め、計39人が犠牲になった。臨時職員も含めた一般職員の2割近くを占める。
なぜ防災対策のマニュアル通りに高台の公民館に本部を設置しなかったのか――。7年半たった今なお解明されてはいない。
「その原因検証のためにも旧庁舎の存在は必要ではないか」。地元の吉祥寺(きちじょうじ)住職、高橋英悟(たかはしえいご)(46)らは住民にそう問いかけてきた。
一方、防災担当の総務課職員だった現町長の平野公三(ひらのこうぞう)(62)は屋上に逃れて助かったが、同僚らが津波にのまれていくのを目の当たりにした。それだけに「(旧庁舎を)見るのがつらいという、今を生きる人の気持ちに寄り添う」として、旧庁舎の解体方針は揺るがない。1票差で町議会の過半数の同意を得て、「粛々と進める」という。
逆に「生きたくても生きられなかった命に寄り添う」と決めた高橋らの祈りのような思いは断たれたままだ。解体工事差し止めを求める住民監査請求を退けた町監査委員の論拠の一つは、地方紙のある記事を根拠にした「解体支持が多数派」という推論だった。
「しかし……」と高橋は言う。
「人々の思いというのは、この建物の社会的価値のように、年月とともに変わるのではないですか? 役場としては機能しないけれど、震災の教訓を伝えるという新しい価値のことです。見たくないという人の気持ちも尊重したい。だからこそ、ちょっと立ち止まって考えてみませんか、と言いたいのです」
吉祥寺の住職でもある高橋は今年のお盆の期間中も、檀家(だんか)だけでなく多くの遺族と語らった。愛する者が「なぜ亡くならねばならなかったのか」と今もつらい思いを抱え、「(旧庁舎を)感情的に見たくない」と言っていた人が「子や孫のために少し様子を見てもいいんでは」と言うようになってきた。
「私たちは今生きる人のことだけでなく、未来の命のためにも、何を残さねばならないのか、を考えねばならない。拙速に強行して町を二分するのではなく、熟慮しつつ互いに傷ついた心を結び直してみませんか」
そう語りかける高橋にとって、「祈り」とは「対話」に他ならない。(本田雅和)
(No.558)
【写真説明】
津波で根こそぎ奪われた市街地を、読経して歩く高橋英悟住職ら曹洞宗の僧侶たち=2012年3月11日、岩手県大槌町吉里吉里、山本宗補氏撮影
朝日新聞社
(てんでんこ)祈り:5 絶望から
2018.09.15 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,068字)
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■ラグビーで大けがし、後遺症が残る。22歳の秋、足が向いたのが禅寺だった。
岩手県大槌(おおつち)町の吉祥寺(きちじょうじ)住職、高橋英悟(たかはしえいご)(46)は在家出身の僧侶である。宮城県南部の町で公務員の家庭に生まれた。
ラグビー好きの父の影響で幼い頃からラグビーボールで遊び、大学生になるまで地域のチームで活躍。東北福祉大4年生の時、試合中に相手選手に腰を蹴られて大けがをした。
3カ月近い入院と大手術を経ても、椎間板(ついかんばん)ヘルニアの後遺症が残った。卒業後はチームの先輩の誘いでスポーツ衣料品会社への就職も決まりかけていた。生涯続けようとしていたラグビーはもはやできない。「絶望という言葉しか浮かびませんね」と振り返る。
そんな22歳の秋、自然と足が向いたのが宮城県川崎町の禅寺だった。母方の祖父が曹洞宗の高名な禅僧で、幼い時から尊敬していた。朝5時からの座禅、読経、庭掃除……。修行が始まった。
横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山、総持寺(そうじじ)で修行を続け、24歳で東京都日野市の寺に入った。副住職になり寺の運営にも慣れてきたとき、縁もゆかりもなかった大槌町で常駐住職が不在の寺への赴任を打診された。
断るつもりが、故郷に似た小さな町の風景と雰囲気が不思議と使命感を駆り立てた。
2000年6月、大槌へ。荒れていた境内を禁煙にして整え、法話の最中でさえ私語の絶えない檀家(だんか)宗徒とぶつかりながらも、子どもの座禅教室を開くなど関係改善に努めた。
2人の娘も地元の小学校に通い、地域にようやく溶け込めた矢先の東日本大震災だった。寺を開放して避難者を受け入れ、50日目には津波にのまれた檀家168人の戒名を無料で付け、合同葬儀を営んだ。
あまりに多くの遺体を前に「地獄を見た」とふり返る。が、ラグビーで大けがをしたときのような「絶望」感はなかった。「あのときはもがいていた」が、今は「祈り」の中で死者や遺族との「対話」を進めている。
「なんで自分だけ生き残ったんだ」と嘆く人には「人間界での役目を精いっぱい務め終え、たまたま津波で元の世界に帰っていったのです」と説いた。身内が行方不明のままの遺族には「自分が悪いことをしたからだ」と悔いる人も多い。「いや、家族を悲しませないための最後の思いやりですよ」。そう語りかける。
(本田雅和)
(No.559)
=次は18日に掲載します。
【写真説明】
6年前に大阪府茨木市の踏切で自死した女子中学生のために祈る高橋英悟住職。毎年夏、命日の前後に現地に赴く=2日午前10時30分、大阪府茨木市蔵垣内
朝日新聞社
(てんでんこ)音楽の力:17 慟哭
2017.09.13 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,062字)
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■谷川俊太郎の詞が流れる。夫がいなくなって「泣くことさえ忘れていた」。
岩手県大槌町の「クイーン」は県内で最も古いジャズ喫茶だ。ここに集うジャズファンから「会長」と呼ばれ親しまれてきた菅谷義隆(すがやよしたか)(当時62)が、津波にのまれて6年半。
店には東日本大震災前、2万枚近いレコードやCDがあった。マイルス・デイビスやカウント・ベイシー、ジョン・コルトレーン、マッコイ・タイナーらの名盤数枚は、ファン仲間が泥の中から回収した。だが、義隆の遺品も手がかりもいまだに見つからない。
妻あや(60)が夫を捜して遺体安置所を巡っていた2011年6月27日夜、岩手県一関市の老舗ジャズ喫茶「ベイシー」に、あやは招かれた。坂田明(さかたあきら)トリオのライブだった。
「死んだかれらの残したものは 生きてるわたし生きてるあなた 他には誰も残っていない 他には誰も残っていない」
谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の反戦歌「死んだ男の残したものは」が流れた。サックスから口を離して歌う坂田のうなり声が会場の空気を震わせると、最前列で義隆の遺影を抱いていたあやの体の奥から嗚咽(おえつ)がもれ、やがて慟哭(どうこく)となった。「義隆がいなくなって3カ月、泣くことさえ忘れていたのです」。あやはこの夜、震災後初めて声をあげて泣いた。
アンコールはあやの大好きな映画「ひまわり」の主題曲だった。高校時代に初めて見て以来、大人になっても、震災後も、何度も何度も借りてきては繰り返し見た映画だ。
坂田のサックスから漏れ出るため息は、理不尽にも夫を奪われたソフィア・ローレン演じる女主人公のそれであり、あやの脳裏に広がるひまわり畑の向こうのウクライナの空は、子どもの頃から見続けてきた大槌湾の海の、目にしみる青さそのものだった。
翌28日午後、坂田はクイーンの跡地に立ってアイヌ式のお祈りを捧げた後、海に向かって「浜辺の歌」を吹いた。ここでもあやが、「生かされてしまった」という何人もの被災者たちと待ち受け、坂田の演奏を見守った。
岩手ツアーに参加し、坂田の奏でるサックスの音と思いに耳を傾け続けたピアニスト黒田京子(くろだきょうこ)(59)は、「私たちにできることは……生き残っている者たちに、ほんの少しの希望を届ける、否、届けられること、かもしれない」と日記に書いた。坂田は「このときほど、音楽を演奏することを苦難だと思ったことはない」と振り返る。
(本田雅和)
(No.347)
【写真説明】
津波の後、泥の中から回収されたコルトレーンやカウント・ベイシーの名盤=岩手県大槌町
朝日新聞社
(てんでんこ)祈り:15 日々の生活
2018.09.29 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,047字)
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■皿を洗うこと、空がきれいだなと思うこと……。祈りの意味が変わった。
「祈りとは何か……。3・11を経験し、自らもぼろぼろになって初めて、私の考えは大きく変わりました」
岩手県釜石市の中心街にある日本キリスト教団・新生釜石教会は東日本大震災の津波で1階の天井まで浸水した。牧師の柳谷雄介(やなぎやゆうすけ)(49)は家族と3年余りの避難生活を強いられ、心労から一時休職せざるを得ないほど苦しみながら、祈りの意味を考え続けてきた。
震災直後は「今ほど祈りが必要なときはない。こんなときだからこそ、多くの人が教会に祈りに来るに違いない」と思っていた。
がれきと泥に埋まる教会前でテントを張り、温かいお茶もふるまった。救いを求めてやって来たのは信徒や近隣住民だけでなかった。全国各地から支援者やボランティア、他宗教や他宗派の宗教関係者まで、「ありとあらゆる人たち」が教会を訪ねてくれた。
しかし、だからといって震災後、教会員やクリスチャンの数が増えたわけではない。
「それは皆さんが神に祈っていないのではなく、皆さんの祈りにわれわれ宗教の側が、特に現存のキリスト教会が応えられなかったのではないか」。最近ますます、そう思うようになってきた。
毎週日曜の礼拝や賛美歌は祈りの一つの形かもしれないが、「それだけでは多くの人がもう一度来ようとは思わなかったのではないか」。あれだけの惨事の後、「当たり前の日々の生活の中で、皿を洗うこと、散歩に出かけて空がきれいだなと思うこと。それこそが祈りなんだ」と。「祈り」の定義自体が、自分の中で変わるのを感じていた。
7年半前のあの日。柳谷は教会堂の隣の牧師館にいた。激しい揺れの後、外に出た。保育園児たちが裏山に避難するのを手伝ったり、近所の一人暮らしの高齢者の無事を確かめたりして、自らも高台に避難した。直後に津波が市街地を襲い、教会をのみ込んだ。
高台で合流した妻(50)を含めて200人以上の被災者と、近くの病院が開放した病室などに入れたのは夜になってからだった。配られた新聞紙の上で横になっていると、「○○はいますか」と家族や愛する者の名を呼び、安否を問う人々が次々と訪ねてきた。「これこそ祈りだ」。柳谷は確信した。あの夜、街には祈りがあふれていた。(本田雅和)
(No.569)
=次は10月2日に掲載します。
【写真説明】
がれきに埋まった教会堂の外に集まった信徒とともに、震災後初の礼拝をする柳谷雄介牧師(左端)=2011年3月20日、岩手県釜石市大町3丁目、新生釜石教会提供
朝日新聞社
(てんでんこ)祈り:16 壁のない教会
2018.10.02 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,052字)
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■あつれきの中で自分を見失っていく恐怖。牧師は神父に手紙を書いた。
新生釜石教会の牧師、柳谷雄介(やなぎやゆうすけ)(49)が、岩手県釜石市の避難者収容施設になった旧市民病院の部屋を出られたのは、2011年7月だった。東日本大震災から4カ月後にようやく避難所生活に終止符を打てたが、まだ教会も牧師館も復旧しておらず、柳谷夫妻は順番待ちしていたプレハブ仮設住宅に入った。
柳谷はそこから教会に通い、礼拝をし、信徒たちの相談にのった。誰もがぶらっと訪ねてお茶を飲んで語り合える「赤テント」の運営もしつつ、教会の再建に取り組んだ。
震災直後、会堂内は天窓が破損し、壁や床が剥がれ、泥にまみれたグランドピアノが3本足を上にしてひっくり返っていた。ただ、そんな光景を目の当たりにしても柳谷に絶望感はなく、逆に「被災した教会、被災した人々と共に生きていく」との使命感がわいた。
しかし、「2週間も経たないうちに、僕の心は次第に折れていくのです」と吐露する。
教会員の間では「会堂を早く元通りにしてほしい」「礼拝に必要なものはすぐに買えばいい」など、震災前の姿への早急な復旧を望む声が強かった。「いったん壊されたものは元通りには戻りません。神の国が来ているのです。『壁のない教会』で新しい価値を創っていきましょう」と説いたが、「どこまで理解してもらえたか……」とふり返る。
「どうしてこんな目に遭ったのか」という怒りのはけ口を求めてくる被災者もいた。信徒や支援者からの期待、教会再建を巡る意見の違いなど、あつれきの中で日々の活動が信仰の本質からどんどん離れ、自分自身を見失っていくような恐怖も感じた。
恐れと迷いが頂点に達しかけた時、柳谷は、東京都多摩市にあるカトリック多摩教会の司祭だった晴佐久昌英(はれさくまさひで)(60)に手紙を書く。「神様という言葉や宗教用語を使わずに神を語れる神父」として有名な人だ。
柳谷は牧師になってすぐの10年前、その著作にふれて感銘を受け、訪ねたことがある。「宗教・宗派より人だ」という柳谷にとって、カトリックとプロテスタントの違いなどどうでもいいことだった。
手紙には教会の被災を伝える資料と「私のために祈って下さい」と書いたはがきを同封した。1カ月後の5月最後の日曜日。アポなしで多摩教会のミサに参加した後、「釜石から来た柳谷です」と名乗り出た。
(本田雅和)
(No.570)
【写真説明】
教会前に設営された「いこいのひろば・赤テント」=2011年8月10日、岩手県釜石市大町3丁目、新生釜石教会提供
朝日新聞社
(てんでんこ)祈り:17 原点
2018.10.03 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,017字)
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■「へなちょこで優柔不断で」。弱さをさらけ出せるのは、強さでもある。
2011年5月末、プロテスタントの牧師、柳谷雄介(やなぎやゆうすけ)(49)は、東京都多摩市のカトリック教会のミサに参加した。司祭の晴佐久昌英(はれさくまさひで)(60)に「岩手県釜石市から来ました」と名乗り出た。
晴佐久は一瞬驚いたが、机上に置いていたはがきを指さした。柳谷が「私のために祈ってください」としたため、送ったものだ。
「あなたのために祈っていましたよ」。晴佐久は返し、さらに「すでに釜石にも行く予定にしていますよ」と言った。
6月末、晴佐久は街のあちこちにがれきが残る釜石を訪ね、壊れたままの新生釜石教会で20人ほどの信徒を前に説教に立つ。
「会堂内は津波で浸水し、壁がはがれ、めちゃくちゃになりました。でも、そんなことはどうでもいいのです。教会というものは建物でもないし、お金でもありません。2人でも3人でも、信ずる仲間が集うのが、神のおつくりになった教会です」と言い切った。
「壁のない教会」。これこそキリストが祈りを捧げた原点の場所ではないか。晴佐久と柳谷の思いが響き合った。柳谷は、今のままでいいんだ、と救われる思いがした。
柳谷は、指導者然とした牧師ではない。自らを「へなちょこで優柔不断で」と語る。しかし、自分の弱さをさらけ出せるというのは、その人の強さでもある。
それを柳谷に教えた晴佐久もまた、恐れから自由であったわけではない。
釜石では「すみません」という気持ちで避難所を回った。司祭の印であるローマンカラーの服をポロシャツに着替え、信者の仲間と一緒に避難所に入ったが、最初は「邪魔なんじゃないか」「受け入れてもらえないのではないか」と恐れた。
「こんにちは」「肩をもみましょうか」などと声をかけていく中で、「恐れの壁を越えて人と人がつながる瞬間が生まれた」という。「教会の壁が津波にぶち抜かれたというのは非常に象徴的です。恐れの壁が壊されたからこそ、私たちは出会えたのですから」と晴佐久は説いた。
だが、あまりにも多くの死やあまりにも大きな困難を前に、「神よ、なぜ」「神はいるのか」と問う人も多い。柳谷もまた、牧師への期待と重圧を前にして悩む。その後、半年間の休職を余儀なくされる。
【写真説明】
柳谷雄介牧師から来たはがきを大切に残している晴佐久昌英神父=9月4日、東京都台東区浅草橋5丁目のカトリック浅草教会、本田雅和撮影
朝日新聞社
(本田雅和)
(てんでんこ)祈り:18 再出発
2018.10.04 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全1,057字)
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■自らの心の傷や他者の痛みと向き合い、「愛されているから」と語りかける。
困難に直面したとき、人はよく神に祈る。悲惨な体験の中で「神はいるのか」と問うこともある。が、神父の晴佐久昌英(はれさくまさひで)(60)は、岩手県釜石市の新生釜石教会でこう説いた。
「はるか昔から地震や津波は常に来ては、去っていった。つい最近になって我々はそこに家を建て、波は越えないはずと防波堤を造り、絶対安全だと原発を建てた。それらは神が建てたものではありません。人間が造ったものです。だから壊れたからと言って『神よ、なぜ?』というのはおかしいでしょう」
新生釜石教会の牧師、柳谷雄介(やなぎやゆうすけ)(49)は2011年夏、晴佐久だけでなく、ホームレス支援で有名な北九州市の牧師、奥田知志(おくだともし)(55)や、原発事故で福島県大熊町から教会員らと流浪を続けていたバプテスト教会の牧師、佐藤彰(さとうあきら)(61)に次々と連絡を取った。
「あのとき、柳谷さんは泣きながら私に電話してきたのです」。奥田は、牧師仲間からの電話を鮮明に覚えていた。柳谷も「避難所では毎晩のように酒を飲んでいた」と言う。
佐藤は「泣く者と泣くために生きた」という「キリスト体験」を語る。「何もわかっていなかったことを知ったのが『震災の恵み』。家(教会)も職もなくし、避難先を転々としながら頭を下げて寝させてもらい、食べさせてもらい、風呂に入れてもらい、着替えをもらい……。苦しかったけれど学んだ」
柳谷は今、自らが受けた心の傷や他者の痛みと向き合い、他の震災や豪雨の被災者にも「大丈夫。神に愛されているから」と語りかける教会をめざす。震災で図らずも実現した「壁のない教会」や、佐藤らが体験した「流浪の教会」に通じるものかもしれない。
宗教者災害支援連絡会代表で上智大教授(宗教学)の島薗進(しまぞのすすむ)(69)は、東日本大震災後に宗教の役割が大きく変化したとみる。宗教・宗派を超え、祈りの意味をこう語る。
「復興と称して利益追求に走る社会システムが存在する中、辛酸をなめつつ人間と社会の弱さを実感している被災者にどう寄り添うか。その思いを言葉にしたものが祈り。公共空間で発せられる祈りと行動にこそ、多様な立場の人々と共有していける宗教の価値が問われているのではないか」(本田雅和)
(No.572)
◇
「祈り」は終わります。5日から第32シリーズ「商店街」を始めます。
【写真説明】
対話の大切さをますます感じるという柳谷雄介牧師(左)=9月8日、岩手県釜石市大町3丁目